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錯太郎
福岡県 /
男性
竹、竹、竹が生え。
光る地面に竹が生え。

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- 2021.04.08 22:46
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「幸せ」という言葉は「仕合わせ」とも言われ、
お互いにつかえ合う、支え合う、助け合うことでもあります。
決して一人では生きられない人間は、
お互い支え合うことによって喜びを感じます。
それが「幸せ」でしょう。
(横田南嶺「仏心の中を歩む」より)
しかし、お互いに支え合う人間世界から、
ドロップアウトしてしまったら、どうなるか。
何も支えず、何からも支えられず、
そのお互いから成る人的構築物から脱落した人間は、
一人谷底に落ちて、
せめて、その谷底で横になって安楽を貪るよりほかにない。
「幸せ」は諦めて「安楽」に生きられればよい。
だって、「幸せ」になる道は途絶してるのだから、
せめてゴロ寝して、安楽に過ごすことを求めるしかないではないか。
もう結婚は諦めてる。
第一、性欲が無い。
おまけに人と関わることが嫌いなので、
一人の部屋で寝転んで、
ただ安楽のみを追求するしかなくなる。
何が欲しいとか、何をやりたいとか、
そういった欲望も、無い。
ただ、求めるのは、眠って見る、
春の朝の夢。
儚いけど、それは現世も同じこと。
現世も夢幻泡影に過ぎぬ。
同じ夢なら、眠って見る夢のほうがいいや。
幸せにはなれない身としては、
せめて安楽を貪るより他に仕方が無い。
今日も午後2時半ころに起きた。
この頃、12時間くらい眠ってる。
ぐうたらで怠惰だが、
貧血気味の今としては他にせん術ない。
今の自分がいいとは思ってないけど、
どうしようもないのだから、
仕方ないじゃないか。
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日記カテゴリ
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コメント数(4)
兼好法師とか良寛みたいな生活に憧れたが、
今はそれを具現しているのかもしれない。
でも、貧血じゃ仏道修行も出来やしない。
デタラメ博多弁はやめい。
いいんでしょうか?
本来の「幸せ」は心の満足だと思っていますので、私は幸せです。
おカネもないし、頭脳&体力の劣化も進んでいるが、心は満たされておる。メシ喰うカネはあるし、嫌なことは忘れられるし、体力のないフリをすれば周りが助けてくれる。
若い頃はめぐり合わせ(仕合せ)も幸せだったが、今は他人と深く関わる必要もなくなってきた。これもイイね。
吉野の千本桜を見に行ったときに西行庵に立ち寄った。
山奥にある広さは4畳半一間で何もない。誰にも干渉されず寝起きするだけで、羨ましいと思った。
ばってん、そげな住居も持たんサドゥーが究極の幸しぇやろうね。